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映画『君の名は。』に奪われた心を、取り戻しに行く

 映画『君の名は。』は人生で最も良い映画だった。映画を見てからは、しばらく放心状態。もう何も考えられない。とりあえず、考えていることを書き出してみようと思っても、まともな言葉が出てこない。映画に心を奪われてしまったような状態だ。だからと言って、別のことを考えようとしても、映画のことしか考えられない。こんな感覚はいつぶりだろうか?もしかしたら人生で初めてかもしれない。
 とりあえず、もう一度だけ、観てみよう。時間節約命のライフハッカーとして、同じ映画を映画館で2度も観るなんていう贅沢を行ったことはもちろん一度もない。それでも仕方あるまい。今回だけは特例として観に行った。
 2回観ることで、「固まってしまった心が、溶けてくれるのではないか?」とか、「何も言葉が出てこない中でも、上手く言語化できるようになるのではないか?」とか、「自分が気付いていないヒントが映画の中にもっと散らばっていて、それに気付ければ、確固たる確信のようなものが得られるのではないか?」と期待していた。
 でも、新海誠監督はそんな簡単に教えてくれないようである。というか、そんな簡単に伝わる物ではないからこそ、物語という形に込めないと伝わらないのである。ただ、その物語という形式で表現できることの極限を行く映画なのだ。だから2回観てみても、ますます不思議な気持ちになっていくだけだった。
 こんなことを永遠と話していても仕方ないので、もう少し具体的に自分が感じている不思議な気持ちを幾つか言語化していきたい。今回の記事ではその一つ目として、「男女の恋愛物語ではなく、どこまでも自分一人の物語である」ということである。一度目の鑑賞では恋愛ものとして楽しんだが、2度目の鑑賞では、恋愛をこの映画から奪ってみてもストーリーが成立していることに驚いた。

 以下、飽くまで妄想に過ぎない部分が多いので、リラックスして読んで欲しい。

(ちなみに、このブログ記事を開いた時点でネタバレOKの読者だと思うが、念のため忠告しておくと、ネタバレ記事である。新海誠監督の過去の作品のネタバレを含む。)

<今回の目次>

今度の映画はなぜハッピーエンディングなのか?

 新海誠監督は、男女の恋愛映画を今まで作ってきたし、そういう監督として認識されている。『ほしのこえ』では美加子が宇宙戦士になり、昇との間には物理的に想像しづらい距離が出来る。メールのやりとりをするだけでも片道8年の通信。「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」というセリフそのままだ。
 『秒速5センチメートル』の貴樹は、小学生時代から明里を思い続け、大人になっても心から離れていかない。狂ったように仕事に打ち込むが、自分の思いが紛れることもないし満たされることもない。こちらも面白い。
 『星を追う子ども』では、シュン君を思い続ける幼い少女が主人公だが、物語の序盤でシュン君は死んでしまう。死者を復活させようと試みる、ファンタジータッチの映画である。
 『言の葉の庭』では高校生のタカオが、雪野先生に恋をしてしまう話。生徒と先生という壁が二人を遠ざける。46分しかないのに、観ていると2時間ぐらいに感じられる。「雨」を軸にした素晴らしいストーリーである。何度も観たくなるタイプの映画だ。
 観ればすぐに分かることではあるが、どの物語にも共通するのは、恋人同士の距離が描かれていることである。しかも、その距離は最後まで埋まらず、時にはどんどん拡大していき、悲しさ・切なさを充満させる。
 こういう事前知識がある状態で今回の『君の名は。』を観た深海ファンの多くの度肝を抜いた。いったいなぜ、二人は再会してしまうのか?いったい新海監督に何があったのか?
 これは新海監督のエンタメ路線に切り替えたとか、別の観点から恋愛を描いてみたとか、そういう分析記事も多い。しかし、「この映画は恋愛はまったく関係ないのではないか?」というのを想像してみたら、過去の作品のメッセージとは矛盾しないし、「新海監督が恋愛ハッピーエンディング!?」と驚くこともない。恋愛じゃないからハッピーエンディングなのだ。

恋愛はなぜ関係ないのか?

 「恋愛は関係ないと言われても、三葉と瀧の物語は恋愛そのものではないのか?」という質問に対しての解釈は次の通りだ。主人公は瀧。瀧の前世が三葉。三葉の前世が二葉。二葉の前世が一葉。ついでに言えば、瀧の来世は四葉である、というのが私の仮説(妄想)だ。つまり登場人物はほとんど全員、自分自身なのである。三葉が「来世は東京のイケメンにしてくださーい!!」という印象的なセリフは、メタファーとしてコミカルに受け入れられているが、実はこれはギャグではなく真実だと思っている。
 一葉(おばあちゃん)が、「私も少女の頃、夢をみとった。あんたの母親(二葉)も同じような時期があった。」と発言するところがある。これに対して、三葉は「この日のために宮水の一族の夢はあったのかも!」と言う。つまり、おばあちゃんも、お母さんも、誰かと夢の中で入れ替わっていたのだが、いったい誰と入れ替わっていたのだろうか?
 もし、三葉の言うように、彗星の悲劇を食い止めるために夢を見ていたのであれば、おばあちゃんもお母さんも、瀧くんと入れ替わっていたと考えるのが自然ではないか。おばあちゃんが「ここのところのあんたを観ていると、昔に自分が夢で人と入れ替わっていたことを思い出すのよ」と言っているが、これはおばあちゃんと瀧くんが入れ替わった経験があるからこういう発言になるのではないか。つまり、三葉が突然にも瀧くんっぽくなり、消えた記憶がくすぐられたに違いない。
 本来は三葉は瀧くんの前世なので、生きているタイムスパンが重なるのはおかしいのだが、一葉(おばあちゃん)と二葉(お母さん)が夢で瀧くんと何度も入れ替わるうちに、時間の次元が歪み、時間がどんどんずれてしまった。その結果、なんと時間差3年にまで縮めてしまい、オーバーラップが発生してしまったのだ。一葉、二葉、三葉がタイムスパンを共有しているのも同様の理由だ。
 でも、そのおかげで、夢の中ではなく、実世界で二人が会うという偉業を成し遂げる。一葉・二葉が、彗星の日のために夢で瀧くんと何度も入れ替わったが、三葉は実世界での繋がりを見事に構築し、まだ瀧くんが中学生の時に会いに行き、彼に紐を渡す。これがなければ、彗星の悲劇は止められなかったに違いない。
 再会ハッピーエンディングの話に戻ろう。前世と現世は同一人物・同一の魂なので、二人の間の溝は本来存在しない。大変に強い重力が働き、自然と再会するのは納得できる。一方で、過去の作品は恋愛物なので、本来は別々の人間だ。男女の間に無視できない距離があり、それは最後まで埋まらず、再会ももちろんできないというのが今までのパターンだった。

RADWIMPSの曲名『前前前世』を深読みしてみる

 今回はRADWIMPSの曲が数曲、映画の中で利用されている。そのうち、『前前前世』という曲が人気のようだ。二人が入れ替わりを駆け抜けるシーン(バカとかアホとかをほっぺに書くところなど)で使われている。予告編でもBGMとして流れているヤツだ。この曲名をよくよく見てみよう。
 「前前前世」とはいったいどういうことか?一葉、二葉、三葉と、代々続く夢プロジェクトなのだから、瀧くんを主軸に前前前世を探すと、一葉になる。そしてこの曲のサビの歌詞も見てみると、まさに一葉の時から瀧くんを探していたという解釈と合致する。サビはこちらだ:

君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ

 「曲の歌詞をそこまで深読みする必要なんてないのでは?」という反論もあるかもしれないが、新海監督と野田さんは、ほとんどシンクロするように今回の映画を作ってきたのだ。監督のブログを一部引用してみると、歌詞からも映画を分析すべきであることが分かる。引用は次の通りである。元記事はこちら

君の名は。』は、音楽の存在感がとても強い映画です。映画の時間軸の中で、音楽が場を支配するシーンがいくつもあります。物語を演じるのがキャラクターだとすれば、劇中の歌も劇伴も、今作ではとても強いキャラクターです。そういう演出を可能にするために、僕たちは1年以上をかけてきました。脚本のイメージからRADWIMPSが作った曲があり、その曲を聴きながら僕は絵コンテを描きビデオコンテを作り、それを見た洋次郎さんがまた曲を書き、それを受けてまた演出を変える、そういうことを重ねてきました。

 つまり、曲名を正確に書き直すと、「僕の前前前世から僕は 僕を探しはじめたよ」であるが、これだとあまりに滑稽であるし、ネタバレになってしまうので、今あるタイトルに落ち着いたのではないだろうか。

いったい、四葉は何者なのか?

 一葉、二葉、三葉というのが続いているとしたら、四葉は何者なのか?これは映画中でヒントを得ることが出来なかったので難しいところであるが、敢えて妄想を膨らませるとすれば、四葉は瀧くんの来世である。
 一葉、二葉が何度も未来に飛んでしまったことで、時間の次元が現世に近づいてしまったと言うことは既に述べたが、現世よりも先の未来についても、現世に吸引されてしまい、来世(四葉)が前世(三葉)と一致してしまった。物理法則の解として姉妹とせざるを得なかったのかもしれない。なので、『君の名は。2』を作るとすれば、四葉が主人公になるのかもしれない。もしくは、「瀧くんが右のくちかみ酒を飲んだらどうなったのか?」を想像することは、「映画『マトリックス』で主人公NeoがBlue Pillを取っていたらどうなったか?」を考えるのと同じぐらい面白い思考実験になる。

なぜ、表面上は恋愛映画になっているのか?

 もちろん私も恋愛映画として感動したし、監督自身のインタビューなどを読んでも恋愛や人と人との温かさが主題であることは明らかであるので、「うるせえ屁理屈野郎!これは恋愛映画なんだ!」という声が聞こえてきそうで怖い。でも、それだけだとこの映画の感動を説明しきれない。私は男性であるが、少女漫画や恋愛映画は男性平均を上回って読んだり観ているので、尚更そう思う。だから、思い切って、さらに妄想を膨らませていこう。例えば、瀧くんが三葉の手のひらに「好きだ」とマジックペンで書くシーンを、今回の「非恋愛」という軸にどのように当てはめるべきなのか?これは恋愛ではなくなんなんだ?
 コレについては、RADWIMPSの新アルバムの第1曲という重要ポジションを占め、劇中でも利用されている『夢灯籠』にヒントがある。気になる歌詞はココである:

5次元にからかわれて それでも君をみるよ

 おや?5次元とはどういうことなんだ。普通に考えると3次元。そして今回の映画では時間がキーファクターとなっているので、それを加えると4次元。あと1つ足りない。これについて考えていたが、ある種の感情が5次元目なのではないか?友情や恋愛は人間が慣れ親しんでいる4次元で表現することが一応可能だ。しかし、本来は同一人物の現世と来世の二人が会ってしまったら、どういう感情を抱けば良いのだろうか?それが実は5次元目なのではないか、というのが私の仮説だ。
 5次元では、現世と来世が夢で入れ替わるなんて朝飯前だ。でも『君の名は。』は4次元で製作されているので、4次元の感情フレームワークで5次元感情を代替しなければならない。前世の三葉と現世の瀧くんをどう描くか?
 そう考えると、一番近しいのはやっぱり恋愛感情だ。だから、恋愛というのは5次元を理解する比喩的フィルターのようになっていると私は考えている。でも、きっと5次元の人から見たら滑稽に違いない。「5次元の感情はそんなもんじゃないよ。すげー世界が広がってるんだぜ」という言葉が聞こえてきそうだ。そういう声と新海監督や野田さんは闘っていたのかもしれない。そう考えれば、「5次元にからかわれて それでも君をみるよ」という歌詞は非常にしっくり来る。

奪われた心を、取り戻しに行く

 今回の妄想には、いくつかの論理的に説明不足である箇所があることは承知しているが、恋愛映画ではなく自分自身と向き合う映画であるという妄想を膨らませてみた。仮にこの映画が「前世を含めた自分自身」と対話する物語だとすれば、そこから私たちは何を感じ、これからどこに向かえば良いのか?
 一応ライフハックブロガーなので、単なる映画の感想で終わらせるつもりはない。人生に活かせるノウハウまで落とし込むことでこそ、ライフハックブログだ。そのことについては次の記事で書くことにしたい。

追記:続編を4つ公開しました。ぜひご覧ください。
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追記:今回の経験をきっかけに、ヲタクアニメも少しずつ観ていこうと思います。
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